Cause precedes to effect. Effect leads to cause.
原因は影響に先立つ。影響は原因につながる。
- Katie, Devs
ドラマ『DEVS/デヴス』はどんなドラマなのかを未見の人に説明するのは難しいです。SFですが、とても地味で哲学的なSFで、しかも抽象的です。とりあえず、ある量子コンピュータと私たちの存在をめぐる話としておきましょう。
このドラマの見方は2つあります。一つは、ストーリーを本気で理解しようと努力してみる方法。きちんと理解することは困難ですが、ぜひトライしてみてください。あるいは、小難しい話は聞き流して、アレックス・ガーランド監督の映像美を堪能するという方法。こちらもおすすめです。
それでも、私は偶然にも海外ドラマと物理学を専門にしている人間なので、ちゃんと理解してみようと思います。この記事では、できるだけわかりやすくドラマ『DEVS/デヴス』の科学と哲学を解説していきます。
基本データ
- 原題:Devs
- 配信:FX on Hulu(アメリカ)、Disney+(日本)
- 公開日:2020年3月5日~4月16日
- 話数:8
- 監督・脚本:アレックス・ガーランド
- 主演:ソノヤ・ミズノ
予告編
ドラマ『DEVS/デヴス』は、映画『エクス・マキナ』や『アナイアレイション‐全滅領域‐』を手掛けたアレックス・ガーランドがすべてのエピソードの監督・脚本を担当しています。海外ドラマ『DEVS/デヴス』は、Disney+(ディズニープラス)で見放題配信中。月額料金は990円(税込)、年間プランなら9,900円(税込)です。
デヴスの量子コンピュータの正体
ドラマの大筋のストーリーはシンプル。主人公のリリーの彼氏のセルゲイは、アマヤ社の極秘開発部門「デヴス」に配属されたものの、そこから機密情報を盗み出したため殺されてしまいます。リリーは、セルゲイがロシアの産業スパイであったことを知り、元カレのジェイミーとともにデヴスの真相に迫っていきます。
難しいのは、肝心の「デヴス」で研究している内容です。デヴスの中にある量子コンピュータは、一体どのような理論をもとにして、どのようなことを行っているのでしょう?
全知マシン「ラプラスの悪魔」
第6話で、ケイティが簡単に説明しています。すべての物事には原因があるはずです。例えば、サイコロの出る目はランダムだと思われていますが、実際にはサイコロを振ったときの速さや角度、空気抵抗など必要なデータがすべてあれば、物理計算によって出る目が求められます。それならば、世の中のすべての事柄について同じような計算すれば、未来をピタリと予測できるはずです。
このような考え方は、別に新しいものではありません。ラプラスの悪魔と呼ばれる概念で、18世紀頃にはすでに考えた人がいます。当時はコンピュータなどなかったので空想上のものでしかなかったですが、近い将来には、もの凄く優秀なコンピュータを使って計算すれば、実現できそうな気がします。しかし、実際にはラプラスの悪魔を実現することは絶対に不可能です。
その原因は量子力学にあります。量子力学では、物体の状態をピタリと計算することができない(不確定性原理)という決まりがあります。どれだけ優秀な計算機を使っても無理です。そういうものなのです。そのため、コンピュータを使って頑張って計算しても、ピタリと未来を予測することはできません。
早くもデヴスの量子コンピュータが実現不可能であることが示されてしまいましたが、諦めるのはまだ早いかもしれません。まだ希望はあります。ヒントは「多世界解釈は決定論的」であるということです。つい先ほど、量子力学では物体の状態をピタリと決めることはできないと言ったばかりですが、量子力学が決定論的であるならばピタリと決められそうな気がします。
不思議な二重スリット実験
エヴェレットが提唱した多世界解釈とは、量子力学を用いて現実を理解する方法の一つです。もう一つの主流な考え方として「コペンハーゲン解釈」というものがあり、こちらの方が人気があります。フォレスト博士が「多世界解釈のファンではない」と言っていた背景には、このような事情があります。
第5話の大学での講義のシーンでは、これらの解釈が二重スリット実験の例を用いて解説されていました。二重スリット実験とは、2つの細いすき間(スリット)が空いている板に光子を当てるだけの非常にシンプルな実験ですが、これだけで量子力学の基本がよくわかります。
量子力学の根本的な考え方の一つとして、光は波であるとともに粒子でもあるというものがあります。二重スリット実験は、光が実際に波であるとともに粒子であることを確認するための実験です。光を先ほどのスリットに通すと、その先のスクリーンには干渉縞が現れます。干渉は波でしか起こらないので、この現象は、光が波であり、両方のスリットを同時に通ったと考えれば理解できます。でも、実験を少しだけ変えると、結果が変わります。
今度は、光がどちらのスリットを通ったかを観察してみます。目で見れるならそれでも良いですが、実際には適当な観測装置を使います。どちらでも結果は変わりません。このとき、今度は光が粒子としてどちらか一つのスリットのみを通り、干渉縞が現れなくなります。不思議な結果です。光がどちらのスリットを通ったか観察しようとしなければ、光は両方のスリットを通るにも関わらず、どちらを通ったか観察しようとすると、光はどちらか一方のスリットしか通りません。「観察すること」が結果に影響を与えてしまうのです。
多世界解釈とは何か?
一体どういうことなのでしょう。それを理解するために、2つの解釈があります。コペンハーゲン解釈では、状態が収縮したと考えます。つまり、観察していないときは光子は両方のスリットを通っていたけれど、観察した瞬間にどちらか片方に決まってしまうというものです。
一方、多世界解釈では、観察した瞬間に世界が2つに分裂したと考えます。すなわち、光子がスリットAを通った世界とスリットBを通った世界に瞬時に分かれてしまうわけです。この2つの世界は完全に分かれているので 互いに行き来したりすることはできません。2つの世界は同時に同じ場所に存在しているので、正確には世界は分裂したのではなく、重ね合わせ状態になったと表現します。
この2つの解釈のうち、コペンハーゲン解釈は非決定論的であり、多世界解釈は決定論的だとされています。なぜなら、コペンハーゲン解釈の場合は、どちらのスリットを通るかは完全に50%/50%の確率です。どんなに精密なコンピュータを用いても、どちらであるかを計算することはできません。多世界解釈の場合は、必ずスリットAを通る世界とスリットBを通る世界の重ね合わせ状態が実現します。そういう意味で多世界解釈は決定論的だと言われています。
物理的にどちらが正しいかは決まっていません。どちらの解釈にしても二重スリット実験の結果は同じなので、決める必要がありません。物理学者も別に気にしていません。科学の世界では、反証する方法(反証可能性)のない理論は科学理論ではなく、コペンハーゲン解釈にしても多世界解釈にしても、それが間違っていることを証明する方法がありません。よって、私はこれらの解釈に関する問題は科学ではなく哲学の問題だと思っていますし、多くの物理学者もそう思っているので深く考えることをやめています。
ラプラスの悪魔は可能なのか?
それでも、せっかくドラマの題材になっているので、もう深く考えてみましょう。多世界解釈ならば決定論的なので、ラプラスの悪魔は可能になるのでしょうか? 結論としては、やっぱり不可能です。少なくともあなたが期待しているような形では。ざっくり感覚的に説明するために、量子コンピュータ(QC)と人間の会話を考えてみましょう。
QC「世界はこれからAとBの重ね合わせ状態になります」
人間「自分の意識は2つの世界を同時に経験することはできない。自分がどっちの世界に行くかを教えてほしい」
QC「それって、あなたの事情ですよね。あなたは世界Aを経験しますし、世界Bも経験します」
人間「だから、どっちかを知りたいんだ!」
QC「あなたの意識もこれから重ね合わせ状態になります。世界Aを経験する意識と世界Bを経験する意識に」
コンピュータはこのような回答しかしません。ラプラスの悪魔として期待していたものとは違いますよね。結局、ピタリと一つの未来を言い当てるという意味でのラプラスの悪魔は実現できないことになります。そして、デヴスの量子コンピュータも実現できません。
SFなので、フィクションを色々とこじつければデヴスの量子コンピュータも実現できるはずです。でも、ここまでの議論をすべて踏まえた上で、つじつまの合うような未来予測機構を考えることは、フィクションであっても難しい気がします。
デヴスの量子コンピュータは、コペンハーゲン解釈を用いているときにはあまり正確な未来予測ができないが、多世界解釈を用いればピタリと予測できるものだと言われています。これが私を最も悩ませたポイントです。コペンハーゲン解釈と多世界解釈は、ともに解釈の話に過ぎないので、どちらを取っても実験の結果は変わりません。そのため、片方の解釈を使えば良い結果が出るけど、もう片方の解釈を使うと良くないということはありえないのです。
とすると、ドラマの世界では、コペンハーゲン解釈が完全に否定されるような実験が行えることになります。例えば、多世界解釈では複数の世界の重ね合わせ状態が実現するので、自分の意識があるのとは別の世界を見つけることができれば、正しさを証明できます。でも、他の世界とは交流できないことが多世界解釈の大事なポイントでもあるので、見つけられるわけがありません。それが見つけられるからSFなんですね。
自由意志はあるのか
コンピュータの話はここまで。別のトピックに移りましょう。今度は、自由意志の話です。これはさらに難しいですし、どんどん哲学の領域に入ってしまいます。そのため、ここからは科学的な見解ではなく、私個人の考えだと思って読んでください。
自由意志に関する議論には2つの要素があるはずですが、しばしばそれらを混同している場合があるので、ひとまず整理しておきます。1つ目は、恣意性です。この世界には、恣意的に選べる事柄あるのかどうかという話です。これは物理学の観点から議論できます。ドラマ『DEVS/デヴス』は、この恣意性の観点から自由意志の議論をしています。2つ目は、心理学的な側面ですが、あとで詳しく書きます。
世界が決定論的であるならば、自由に選べる事柄は存在するのでしょうか。コペンハーゲン解釈では、量子力学の現象は確率でしか語ることができず、何が実際に起こるかは完全に偶然なので、恣意性はありません。あなたにも私にも結果を左右することはできません。
多世界解釈では、どの世界も同時に経験します。あなたが世界Aを経験したいと思ったら、世界Aを実際に経験している意識があります。同時に、願いとは反対に世界Bを経験している意識もあります。どちらにしろ、あなたの意識によって世界が重ね合わせ状態になったわけではないので、恣意性はないでしょう。
つまり、量子力学の観点からは、どっちにしろあなたの意識で未来を左右することはできません。コペンハーゲン解釈ならば、未来は偶然に左右されます。多世界解釈なら、すべての未来が実現します。
この考えを、そのまま人間に当てはめてみましょう。例えば、今日の夜はガパオライスを食べたいなと思ったとします。この気持ちは、コペンハーゲン解釈によると、全くの偶然から生じたことになります。多世界解釈によると、ガパオライスを食べたいという思う世界と思わない世界が重ね合わせ状態になっており、先ほどの気持ちは食べたい世界にある意識が発したものだというわけです。
自分が何を言っているのかよくわからなくなってきました。ちなみに、自由意志に関する2つ目の観点は、人間心理に関するものです。人間は、周囲の環境から様々な影響を受けています。ガパオライスを食べたいと思ったのも、ガパオライスの広告をどこかで見たからかもしれません。そうなると、やっぱりその気持ちは自分の中から発したものではなく、外部から誘発されたものであるので、自由意志ではないことになります。
もっとわかりやすい例として、マインドコントロールされている人間には明らかに自由意志がありません。これは心理的な観点からそう言っているはずであって、わざわざ決定論がどうこうと考えなくても、自由意志がないのはわかります。このあたりの話はドラマ『ウエストワールド』でじっくりされているので、気になる方はぜひ観てみてください。
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ドラマの感想(ネタバレ)
ドラマ『DEVS/デヴス』は、SFなので、別に科学的に正しくないのは一向に構いません。科学的に正しそうな雰囲気がしているので、自分もついこちらも本気になって考えてしまいましたが、ここまでの解説で書いた通り、科学的には全く正しくありません。そう気づいたのはこの記事を書いているときなので、ドラマを観ている最中は、正直ずっと混乱していて意味不明でした。
純粋にドラマとしての話をするなら、アレックス・ガーランドの監督としての手腕は見事だと思います。あの量子コンピュータのセットは美しかったし、全体的に映像はとてもセンスを感じました。脚本もアレックス・ガーランドが書いていますが、ストーリーはやや単調すぎた気がします。セルゲイがアマヤ社に殺されたのは最初からわかりきっていますし、多世界解釈の話も自由意志の話も抽象的です。
最終話で、リリーが自由意志を発揮したのは、ドラマとしては良い展開なのでしょう。自由意志なんて存在しないんだという結末は、エンターテインメントとしては受け入れられないでしょうから。自分は存在しないと思いますけど、たいていの人は存在すると思いたいようなので。
あと、DEVSが実はDEUS(神)だというオチには、ちょっとした小ネタのような意味もあると思います。アレックス・ガーランド監督の出世作といえば、映画『エクス・マキナ』ですが、演劇界には古くからデウス・エクス・マキナという言葉があります。これは「機械仕掛けの神」という意味のラテン語で、演劇の終盤になって急に神のような都合の良い存在が現れて、物語を終わらせる手法のことを言います。ドラマの結末自体は、別にデウス・エクス・マキナだとは思わなかったので、ただの言葉遊びかもしれません。
『DEVS/デヴス』は、悪いドラマではないと思います。こういうドラマが好きな人もいるはずです。でも、私には理解不能でしたし、楽しめたとは言い難い作品でした。別の現実には、このドラマを楽しんでいる私もいるかもしれませんが。