もしも、地球上から男が全滅したら……?
より正確を期すと、もしも地球上の哺乳類のオス、すなわちY染色体を持つ哺乳類の個体が、1人の人間の男と1匹のオマキザルのオスを除いて全滅したら……?
『Y: ザ・ラスト・マン』は、そんな究極の状況から始まる物語です。設定だけ聞くと、もしかしたら安っぽい?なんて思ってしまうところですが、中身はむしろ重厚。ifの世界で起こるであろうことを徹底的に考察し、描き切った名作SFとされています。
アイズナー賞を受賞し、2021年秋にはアメリカでドラマ化もされた注目のグラフィックノベル『Y: ザ・ラスト・マン』の魅力を徹底紹介していきます。
※追記:2021年10月27日より、日本のディズニープラスの新ブランド「スター」にて、海外ドラマ『Y: ザ・ラスト・マン』の配信が決定しました!
関連記事:ディズニープラス「スター」で配信される海外ドラマまとめ - 海外ドラマパンチ
『Y: ザ・ラスト・マン』基本データ
・原題:Y: The Last Man
・出版社:Vertigo
・刊行日:2002~2008年
・話数:60
・作者:ブライアン・K・ヴォーン、ピア・ゲラ
・あらすじ:
2002年夏、地球上の哺乳類のオスが全滅した。ただし、青年ヨリック・ブラウンと彼が飼っているオマキザルのアンパサンドを除いて。ヨリックは、政府の秘密組織のエージェント355とともに、人類を救うための旅に出る。
書籍情報
全60話の12話ずつまとめられた全5巻のコミックとして出版され、邦訳版も誠文堂新光社のG Novelsから刊行されています。だいたい1巻が300ページ程度でフルカラーなので、そこそこ重いです。新品の場合は1巻あたり3,000円前後。
英語版では6話ずつをまとめた全10巻のバージョンもあります。Amazonプライム会員の場合は、この第1巻のKindle版が無料で読めるので、お試し感覚で見てみるのもおすすめです。
『Y: ザ・ラスト・マン』の魅力
ドラマ版のポスター
①冒険
物語の大枠として『Y: ザ・ラスト・マン』はロードムービーです。いや、映画じゃなくてコミックだから、ロードムービーじゃなくてロードコミック?日本語なら股旅物というところでしょうか。
スタート地点は、アメリカ東海岸にあるニューヨークのブルックリン。そこから、男がいなくなった世界を舞台に、唯一の男となったヨリックと猿のアンパサンド、彼の護衛を務めるエージェント355の一行は、西へ西へと進んでいきます。
立ちはだかる敵は、イスラエル軍、ラディカルフェミニスト集団、謎の刺客などなど。世界でただ一人生き残った男の命を奪いたい者、あるいは生け捕りにしたい者がたくさんいます。
このコミックは一応SFというジャンルになりますが、最初のジェンダーサイド(男の大量死)以外にはSF要素はないため、超能力を持つ人々やモンスターなど現実に存在し得ないものは出てきません。対決は常に人間vs人間なのです。
大人向けコミックらしく、血しぶきやグロテスクな描写も交えて描かれる戦闘はエキサイティング。単なる対決だけでなく、駆け引きが重要になることも多く、先読みができない展開はスリリングです。
②ユーモア
設定がシビアなので、真面目なコミックなのかなという印象を持ってしまいますが、意外とユーモアもたっぷり。なぜなら、主人公のヨリックは世界で唯一の男であるにも関わらず、とてもお調子者なのです。
アマチュア脱出マジシャンのヨリックは、何に使えるかよくわからない技術と知識で、旅を盛り上げてくれます。旅の仲間たちは、少々うんざりしているようですが……。
ヨリックは、映画・ドラマや音楽などサブカルチャーに関しては、やたら詳しいところがあります。邦訳版だと、かなり丁寧に注釈が付いているので助かったのですが、原著で読むとどうなんでしょうね。自分だったら、半分もネタが分からなかったんじゃないかと思ってしまいます。邦訳版には感謝です。
③ミステリー
なぜ、地球上の哺乳類のオスが全滅してしまったのか?なぜ、ヨリックとアンパサンドだけは生き残ることが出来たのか?この後、どうすれば人類を救うことができるのか?ヨリックとエージェント355は、その答えを求めて旅をしていきます。
特に、最初の質問については、旅の道中で様々な考えを持つ人々に出会います。男は有害だから、神の意志によって全滅させられたのだ。これは政府の陰謀だ。男たちは別次元にいるだけだ。などなど。謎の数々は、読者を掴んで離しません。
ほとんどの回はクリフハンガーで終わります。最後の最後に衝撃の展開が起きて、続きが気になって仕方がなくなってしまうのです。それが、何十回も用意されているわけですから、もう読む手が止まりません。
クリフハンガーは海外ドラマで非常によくある手法ですが、実はこのコミックの原作者であるブライアン・K・ヴォーンは、大ヒット海外ドラマ『LOST』の脚本も手掛けています。旅客機が無人島に墜落するあのドラマです。コミックの方が『LOST』より先なので正直あまり関係はないのですが、その視聴者を取り込む技術は巧みです。
④社会考察
このコミックの最もユニークな点。それは、女性しかいなくなった世界で起こるであろう出来事を、徹底的に現実社会に基づいて考察にしていることにあります。
ジェンダーサイド直後の39ページにある「全世界の地主の99%が死んだ……(中略)……正統派ユダヤ教のラビの100%が亡くなった」という文章は象徴的で、この作品が単なる空想のパニックストーリーに留まらず、現実と地続きな物語であることがわかります。
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↑ ドラマ版のプロモーション。「世界の指導者の89%が死ぬ」と書かれている。原作が描かれた2002年と比べれば女性の社会進出は進んでいるが、それでも到底十分とは言い難い。
男が全滅するという設定から、端的に考えてしまうと、これは極端なラディカルフェミニズムに偏った作品なんじゃないかとも思ってしまいます。それは違います。逆に、世界で唯一の生き残りが女たちからモテまくるという男の下世話な妄想を描いた物語なのかというと、これも全く違います。
内容は、もっと社会派です。例えば、男性がいなくなれば、女性は解放されて自由に生きていける社会になるのでしょうか? 少なくとも、今の社会では政治も経済も男性が担っている部分が多すぎるので、この状態で男性が全滅したら無理でしょう。
それでも、男性だけの世界に比べれば、争いごとは少なくなるのでしょうか? それは何とも言えないところです。人類の半分が絶滅するという大事件の後なので、むしろ争いは絶えないのではないかとも思います。そういった考察が、この物語にはたくさん組み込まれています。
Vol.3の背表紙に載っていたレビューが的確だったので引用します。
文化のどの部分がジェンダーの問題で、どの部分が単に人間の本質なのかを丁寧に考察した思考実験的な作品 ーオニオン誌
深いジェンダー論的考察に基づいた社会派作品として『Y: ザ・ラスト・マン』はグラフィックノベルの中でも非常にユニークな作品であり、高く評価されています。
ドラマ版最新情報
人気のあるコミックには付き物ですが、『Y: ザ・ラスト・マン』にも映画化の企画がありました。映画『ブレイド』や『マン・オブ・スティール』の脚本を手掛けたデヴィッド・S・ゴイヤーがプロデューサーとして参加し、ニュー・ライン・シネマが製作を進めていました。しかし、名作コミックの内容を2時間の枠に収めることに苦戦し、企画は頓挫してしまいます。
2015年からFXという放送局でドラマ化の企画がスタートしました。当初は、ヨリック役にバリー・コーガン、エージェント355役にラシャーナ・リンチの起用が発表されましたが、製作の遅れにより2人は降板しました。さらにコロナ禍も重なり、製作はかなり遅れたものの、ついに完成。2021年9月からアメリカのFX on Huluで配信が始まりました。
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主人公のヨリックを演じるのは、映画『パレードへようこそ』に主演したベン・シュネッツァー。エージェント355を演じるのは、ドラマ『ノスフェラトゥ』『シェイムレス 俺たちに恥はない』に出演したアシュリー・ローマンズ。ヨリックの母を演じるのは、映画『運命の女』でアカデミー賞にノミネートされたダイアン・レイン。
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クリエイターを務めるエリザ・クラークは、ドラマ『エクスタント』『THE KILLING~闇に眠る少女~』でも脚本に参加しています。原作者のブライアン・K・ヴォーンは男性ですが、共同制作・作画担当のピア・ゲラと、ドラマ版の脚本を書いたエリザ・クラークが女性であることは、この作品においては特に意味のあることだとも思います。
追記:ドラマ版『Y: ザ・ラスト・マン』はシーズン1で打ち切られることをFX on Huluが決定しました。クリエイターのエリザ・クラークは、引き続きシーズン2を製作してくれそうな放送局を探していくとのことです。
予告編
まとめ
ちょっとした驚きなのが『Y: ザ・ラスト・マン』が00年代の作品だということなんですよね。ジェンダーに関する考え方は急速に進んでいて、正直自分もまだまだ追いつけていないのですが、約20年前のコミックは既に重要な問題提起を行っていました。そのテーマは古くなるどころか、むしろ今まさに語られるべきものです。
冒険物語、ミステリーとしても面白く、さらには哲学的な問いも含む『Y: ザ・ラスト・マン』が、グラフィックノベルの傑作と評されるのも納得です。ドラマ版を観るにしても観ないにしても、一読の価値のある作品です。